誰も知らない国

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  誰も知らない国  




まるで、雲に覆われるかのように。直に日の光を浴びる天高く上るところにあろうかという高さに隠された秘境。
私の往く手は流れ往く雲ばかりである。
雲の蒸気が相成って、夜はまるで地上の水の運河のように美しいのだと聞いていた。
蒼穹の空は雲の彼方で、光をついばむように流れ往く。窓に手をかけると、背伸びをする。
私の身長では、雲の下までは見えそうもない。
額の方からから私の黒髪が流れ落ちる。ふと、思った。
――今日は、風がない。
ここは雲の上だ。いつも私の髪が掬われるような風は常に吹いているのだが、今日に限ってそれがなかった。
何の災いか、何の前触れなのか。
私は、少し眉根を寄せて、照り寄せる日の光を仰ぎ見る。しかし、当然ながら、いつもと変わらぬ空がそこに佇んでいるだけだった。
ああ、なんて広い。
改めて、この世界は広いのだろう、と思う。何が起ころうとも先は読めずわからない物だ。誰も分からない、誰も知らない。
そのすべてが、この空の上にある。手を伸ばせば届くのだろうか。
私は、そこまで思って、馬鹿馬鹿しい―そう思って考えるのを辞めた。
すべてを知ろうなどと思う方が、愚かなのだ。こんなちっぽけな器に入るものが、この世界の全てなのだとしたら、そんなものは嘘だ。
すべてを知りたいと思う人。届かない事だ、手を振りかざした先の空に届かないように。
それに、私は酷く魅力を覚える。
風の便りか、靴音が聞こえてきた。東の方角だ。食事でも運んできたのだろうか。
ふと、誰も傍にいない事に気づいた。息遣い―というか、人の気配がしない。
何か、あったのだろうか。私は嫌な予感がした。
全身で、何かの予感を感じている。続いて、花瓶が割れる音。
まさか。
そんなはずはない。そんなはずはなかった。考えた事もない。
今度こそ私は、部屋から飛び出そうとした。

「誰も知らない国とは、ここですか?」

――何時の間にか、そこにいた。
そう言ったひとはやんわりと笑んで、私の方を見ていた。漠然と、ではなくはっきりとした明瞭な口調で。
視線は、まだ合わない。冷たいものが脳裏を駆け巡る。
それは自らの言葉に何の疑問も不安も抱いていない者のみが発する事の出来る声色なのだ―と私は知りえていた。
そこに立っているのは、青年だった。私とは違う明るい金髪。光みたいだと私はその色の明るさに一瞬圧倒された。
青年は一層笑みを深くして私を見つめる。自信に満ち溢れた笑みが――不気味。
誰も、知らない国だって?

「……何の、話?」

現にあんたは、ここにいるじゃないの。

「聞いたこともないわね」

私はこれから空でも眺めようと部屋から出ただけだったので、今武器は携帯していない。迂闊だった。侵入者の存在に気づかないとは。私は、それでも何とか余裕を見せようと、上目使いに相手を睨みつけた。油断はできない。
はじめて見る人。初めて感じる、これほどの恐怖。
男は舞うように剣を引き抜く。
見たことがない剣の構え方だ。正眼に構えて瞳を隠して構える。表情は何も窺い知る事は出来ない。
隙という隙が感じられない。相当の使い手なのだと見ていいだろう。私は、頬につたう冷や汗に気遣いない振りをした。依然として男は笑みを崩さない。

「……分かっていますよ。空に浮かぶ孤島、さぞや寂しいのでしょうね」

秘境であるこの空飛ぶ秘境。
それが、私の今いるこの島。雲に覆われる、人々とは隔離された世界。
忘れられた、過去の遺物。
しかし、私はそれだけではなかった。もう分かっている。この男は知っているだろう。

「罪深き罪人達がいるにはあまりにも神聖だ」

私の心を、楔が貫いた気がした。
ああ、この人は。いや――
今更、なのかも知れない。私は、振りかざそうとした腕を下ろす。長い髪も同時に力を失ったように落ちる。
終わり、そう言う私の心が、次第に暗くなっていく。

「…何の、こと?」

言いたい事は山ほどあった。何故、どうしてこの場所を知っているのか。
忘れ去られた、この楽園をなぜ訪れる気持ちになったのか。
誰か、この場所を知る人がいて、指示する者が私を、殺そうと、そう言うのか。足が震える。五感が言う事を効かないのを私は感じていた。

「忘れ去られた、罪深い者たちが、いるんだね」
「やめて」

私は、目の前が暗くなる。私のいつもの癖だった。自分の運命となると、酷く臆病で、一人の子供になる。
弱い自分が嫌だから、強くなりたいからって。
それは、逃げだと分かっていたのに。
これは、封印していた思い。

「私は、責められたくないの」

かすれ声で私は、辛うじてそれだけを紡ぐ。積み重ねた日々を否定しないで。
私は、ここにいる。生きてる。忘れられてない。きっと。そうだよね。
まくし立てるように思い尽くして、私は空の上に浮かんだ島、その柱に手をかける。遥か下は雲だ。その下は、先ほど見た黄泉の土地がある。私が、決して戻れない場所。

「愚かな」

男は、くつくつと笑う。
私は、柱に手をかけると鋭い視線を向けていく。何度も襲い掛かるかのような苦しみ。
私が、浴びた事もないような蔑み。
誰も知らなかったはずの、そして、誰も知るはずもなかった、眼差し。
生き長らえている私の、罪からの逃亡。

「愚か、でもいい」

一つ、約束して。

私は、青空に瞬く光に晒されながら、ついに逃げ場がないのを知った。
この楽園は、きっと必要とされつづける間違った場所なのかもしれない。それでもいい。
風が吹く。
もう一度。

「この場所は、神聖に輝いているって、地上の人たちに知らせてよ」
「死ぬつもりか」

ますます、愚かだ。罪人よ。

「きっとね、見つけてほしかったのかもしれない」

もう目の前が見えなかった。この楽園から出れば、私は。
永遠の生命エネルギーを作り出すこの空中の島を抜ければ、私は…

「不老不死でも何でも、手に入れれば」

ずっと、私見てる。
あんたたちが、苦しんでいくのも。
あんたたちが、それでもつかの間の幸せを手に入れるのも、全部。


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