再帰代名詞

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  再帰代名詞  

――――自分の実家からまっすぐ坂を上ると、真っ直ぐに俺の住む町が見渡せるのを知りながら、俺は一度としてこの坂を訪れたことはなかった。

小さい頃から、よくこの坂に遊びに来ていた、というのは最近実家に戻ったときに古ぼけたアルバムを見て知った事で、そこから映る景色も今とは違っていた。けれど、誰にも晒されない、まさに秘境のようだという印象は薄らぐ様子も無く、ひっそりと穏やかであった。今俺が立っている丘は、緑を追われて、アスファルトに固められそうになっていて、時折咲いている花と花との距離もどこか感傷的で。風になびくと、一層儚げに見えた。
この坂の事も、俺がこの街に戻ってきたときに思い出した。一人暮らしを始めたときからホームシックになった事はなく、家に戻りたいとも思ったことはなかったし、家族から離れて自分だけで生活できるという事もまた魅力的だった。幸い大学に通うための住まいなので、勉強もある程度やっていればそれで人生のレールに乗っかっていると思うところがあった。そこの方は特に歪んだ思想とも思えない、普通と言うレールに乗っかった考え方だろう。
誰が普通なんて決めたわけじゃないけど。

――――急に戻ってこようと思ったのも、田舎の空気が吸いたくなったからだった。やはり人間、最終的には昔の名残は消えないのか、どんなに忘れてしまっていると思う記憶だって、体が覚えていてくれるのだと信じてみたくなるものなのかもしれない。
いい思い出ほど、忘れてしまって、悪い記憶ほど染み付いてしまうものなのだと思っていた。それは、俺にとってはこの感慨深い景色を見るとどうでもそんなものは世俗の果てに捨ててしまいたいほどにどうでもいい物に変わった。

とはいっても、俺自身も変わった。この景色も変わった。住んでいる人も変わった。町も変わっていた。
俺が変わらないだろうと、どこかで思っていたものが終わりを告げていて、そして成長していっている。
それがまた、嬉しくもあり、寂しくもあった。
でも、ある時気づいた。町を見渡して、あの頃の思い出に浸れるのかと思うと、そうでもない気がした。だから戻る事を心のどこかで恐れた。見たくないものとして、心に封印して。
草を縫って、草木を踏んでくる音が聞こえていた。
遠くから呼び声が聞こえるような気がして、ふと幻聴かと思った。風に混じって優しく耳に届く、心地のよい声がする。
誰かが、俺を呼んでいるのか、と。
もう、何だかそれさえも何故かどうでもいい気がした。
けれど、すぐにおかしい事に気づいた。
明らかに、俺としてはおかしい事だ。
この場所は、俺の実家から見て急斜面になっている。




―――次第に近づいてくる足音に、心とは裏腹に耳を澄ましている自分がいた。それが何となく嫌になって、誰かも分からないのに神経質になる。それは、きっと自分だけの時間だと思う気持ちがあるからだろう、どこかに。
その足音の主は次第に、草を縫って走る、草を踏む音を次第に大きくしていった。俺が向こうに気づいたのと同時に、向こうも俺のほうに気づいたのか。
俺は、決して、何にも気づいていない振りをしていたかった。
そして、足音は、俺の真後ろに立った。
ざわめきと、静かさが混ざり合って、怪訝でそれでも壊したくはないような雰囲気だった。太陽の光から、影が見えている。小さい。子供のようだった。

「・・・・・・誰だ、後ろの」

子供だとは既に分かっていたので、出来るだけ威圧をしないよう、声を出したつもりだ。相手の子供は俺が気づいていたのにびっくりしたのか、影が動いた。残念だが、その影に見覚えはない。

「・・・・・・・・・・兄ちゃん、だれ」

その声に既に怯えはない。子供らしい高い声だった。
俺は振り向いて、その子供を一瞥する。やはり予想通り、見たことのない子供だった。向こうも誰だか聞いてくるのだから、まったくの初対面ということになる。
それにしても、この場所をどこで知ったのだろうか。
ここの坂の上の草の生えた崖は、俺の昔住んでいた家の庭から、斜面を昇らなければ辿り着けないもので、そして俺は誰にも出るときその事を教えた事もない。
俺の知らない子供が、どうして知ってるのだろう。
―― 子供、見た格好は少年が俺の事を興味深げに見ている。どうやら、質問に答えなければならないらしい。

「・・・あー兄ちゃんはな、坂の下の家に住んでた人だ。分かるか?」
「・・・・・・・・兄ちゃん、なんでおれたちのひみつ基地知ってんの!?」

まったく会話がかみ合わない。
俺は、必死にこの場所をなぜ知っているのかという疑問を押し殺して耳を傾けた。俺としては本当にこの場所が人目に晒されている、という事実が何とも衝撃的だった。嫉妬、などではない。
きっと、俺以外の誰かがこの景色に語りかけているのが何とも不思議だっただけだ。
俺はこの町が好きで、それなのにも関わらず家に戻ってこようとはしなかった。この景色を眺めていろいろな事を思った。懐かしかった。
けれど、それをきっとこの少年は見てきていたのだ。俺のいない間に人目に晒されてしまった、ということだ。
憤りはしなかったけれど、情けなくもあった。
所詮、大きな事ではありえなかったのだ。場所を知られたくらいで何だ。
俺意外に知れて何が悪い。いつか、この景色の美しさでも人に教えたく思うこともあるというのに、なぜ見られて驚く必要があるんだ。
そう思いながらも、心で思うことは違っていた。
その後、目に入ってきたのは、少年のただ黒い目だった。

「兄ちゃん、知ってるの」

その目に期待の思いは既になく、代わりにあるのは困惑だった。俺が何も言わない事を何か思ったのだろうか。
この際、知っていると言う事にしておくか。

「知ってる、でもなんでここにしたんだ?ここが綺麗だからか。それとも何も思わなかったか」

少年は押し黙り、申し訳なさそうに、何も・・・・・と呟いた。
俺にはなぜそのような顔をする必要があるのかが分からなかった。別に、少年に特に気に留めた覚えは無い。俺は少年を見下ろしながらそんな事を思っていた。

「でも、ここが一番なんか気にいったから、お兄ちゃんも?」
「ああ、でも来たのは久しぶりだ。」

風が凪いで、寒々しい風も吹いていた。揺ぎ無い景色も、揺らいで移ろいやすいこの気持ちも、全部が全部今まで無かったかのように繊細に流れていった。何か、今までに気づかなかったであろう事に、もしかしたら気づけるかもしれないと思っても見たが何もそう簡単には浮かんできそうにない物だった。
普段から気づかないものに、意識して耳を傾けて何も気づけないのか。

「お兄ちゃんにとって思い出なの?」
「いや――」

そうではない、と言おうとして、なんだか簡単に目の前の年端のゆかない子供になんだか勘ぐられているような、心底を覗かれているような妙な心持になって、淀んだものが心を覆った。
思い出―――と言われると、そうなのかもしれない。思い出だからこそ、壊したくないものだから、何度も何度もそこへ行こうと思わないような、そんな物だったのかもしれないと、ここには結局何の思い入れもないと、そういう事か。
心の中でそれも否定した。思い入れというのは、確かに有る。
少年は、いつの間にか俺の隣りに来ていた。困惑している俺とは対照的に、かすかな笑みを浮かべている。
いつだって、そう思うと、いつも正しく道を歩んできたのだろうかと、関係のない根本まで揺らいでしまいそうになっていた。この少年はなぜか俺の心を読むかのように投げかけてくる。

「思い出じゃあ、ないんだ」

少年はそれきり見下ろした町を見るだけで何も言おうとはしなかった。どこか、子供らしくはない、けれど中途半端な途上を迎えた俺の心は重なり合って、それでもこの子供とはどこまでも違う人間だった。
俺がもっと聡ければ、気づけたのかもしれなかった。
紅の赤が遠くに見えていた。遠景の景色は緑でもそれが薄い群青に見えている。まるで対比されるかのように食い違った俺の精神は、そのまま誰にも理解されようとはしなかった。

「じゃあ、どうして戻ってきたの」

そんな事、聞かれるまでも無く、答えはなかった。心のより所だと無意識に思っていた。此処に戻るといつからか敗北感に苛まれていた。
何かに負けていた気がして、やるせなくて、戻りたい。その気持ちは消えなかった。
この気持ちも変わらなくて、この場所は変わってしまっていた。
この場所の在り処は変わらないもので、俺の中の気持ちが変わってしまっていた。

「たぶん、確かめるためさ」

知らない誰かにそういうのも、答えが出たと、ようやく戻る気になった。
俺がここに来て、きっと何かが変わったのだろうか。
いや、変わらずとも、変わらないこともどうでもいいことなのだ。

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