安穏と空とエクスタシー

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  安穏と空とエクスタシー  



「見えた、海が」

壁に手をつき、それでもとしがみ付く僕の心を映し出す。
老朽―そう形容するよりかは、風化していた。ひびの入った石が、包み込むように優しく、時に怜悧に冷たい感触が心地よい。
掻き分けるように、逃げる。

「いたぞ!」

恐ろしさのあまり、冷たい水が手を伝い、心を高ぶらせる。
このままでは、このままでは殺される―というよりかは、何もないままに死ぬ。
焦る気持ちの中に、誤魔化すかのように冷静な自分を形作る。
生きるために、そうした。
死ぬためにも、受け入れるためにもそれは逃げだった。
しかし、自分は生きる為に食べ物を盗んだ。そして、生きる為に逃げた。
そして、今死ぬために諦めようとしている。人間らしいというよりか、生きる中で腐っていっていた。
探す間もなかった。
しきりに手を伸ばして、古びた石の建物のテラスだったものの、欄干を掴み、先の突破口を開いていく。
笑う足が、自分のものではない気がする。
人ではない何かに頼りたくなる、神、宗教、存在し得ない何か、背徳的なもの。
神でもない。
そんな余裕すらもなくて、最後はやはり生きたかった。
飛びたい、そうすれば楽だった。蒼い空へ。包み込む母なる腕の元の海、それと交わる天上の楽園が、空。
空想だと思えども、本能のどこかで楽園だと思ってしまう自分がいた。それは哀しいともとれるけれども、何も知らなければ楽しいはずの本能だった。身をゆだねていたいと思わせる安穏の輝きのはずだった。

それは思いすぎに過ぎないのだけれど、すべてを映し出し、包み込むのだと聞いていた。腕を示しだすように存在する青の色に光が映されて、心に響く。
後光に訴えかけるその煌きにこの町を重ねて、またどこかへ消えるその光だった。
風に弄られる先に道標の様に聳え立つ母なる憧憬を、目を瞠って見つめた。握り締めて壁に手を突き立てる。
髪は、栗色に輝き、光に照らされて風に対しされるがままに流れ行く。照らされたまま残り火のように、宝石をちりばめた水面が瞳を打った。
硝子に指を押し当て、必死に足を窓の縁に押し当てた。手が滑りそうになる。
憧憬に体を縛られつつも、ここは地上からはるか上だったのだ。一瞬忘れそうになっていた自分を思い出し、冷たい汗をかいていた。

空は、いつだって裏切らずに今日も蒼だった。

空と海が重なる線を、僕は目を細めて見つめた。
背後には背徳の輝きがしている。
印象に残るといえば、横からも、海からも、下からも撫で付ける風だった。暴力的までに吹き付ける流れは、穏やかという言葉を知らず執拗さを持って離れない。
怖いもの見たさで下を見た。
不思議な面持ちがしている。
今、僕は追っ手から逃げている状態で、けれど、極限の気持ちだけれども、海の美しさを追っている。
それからも視線をはずし、下を見た。地上の低さが恐ろしく、竦んだ。

「…こんなに、逃げたのか…」

僕は無意識に躍り出た恐怖と、言葉に耐え切れなかった。
眉間を歪ませながら、降りる方法を考えた。震えて棒になった足を奮い立たせて、動かそうとすると古びた石造りの欄干の先が折れる音がした。
体中の瞳孔が開くような衝撃と、吹き出す冷や汗の冷たい心地よさが、一気に襲い掛かってきた。
名折れの花が手折られるのを見ているどうしようもないもどかしさの元に手を伸ばして、それでも蒼い空を恨みながら、その先の意識を手放した。







混濁の中で暴れていた。
妙に覚醒した頭の中で、先ほどの死んだようなエクスタシー、というより限界そのものだった追い詰められた状況を思い、先ほどの自分をそう評価した。
飛び起きるのには傷が疼いて、物凄い力で先ほど盗んだパンを握り締めていた。
何度も、何度も零れ落ちる汗が、必死に生きていると伝えていた。
必死すぎて、何のためにそうしているのか分からず。
武器を探そうにも持っていなかったことに気づいた。
昔、黒光りした銃を持っていた。スラムで死んでいた子供が持っていたものだった。捨てなかった。けれど壊れた。
壊した。何かが違う気がした。
何が生きる正解で、何が違っているのかさえ分からなかった。
それさえも気づかないまま月日が流れた。

「…痛」

寝かされていた布団から頭を起こそうと動くと、腰周りから肋骨、胸の辺り、背中のほうまで痺れたような、刺すような激痛が走った。
そして、鋭利になった感情から、ここがどこであるのか、その思いが先走る。
鉛のように重く、濁った様に混ざった頭を何とか動かしながら、腫れてしまって上手く機能しなかったが周りを見渡す。
黒いような、色素が抜けたような前髪が眉間にかかるのを払いながら、それでもよく見ることができない。
無造作に室内の真ん中に置かれた真っ赤なソファーが印象的で、やたらと乱雑に木の椅子が置かれている。カーテンはカーテンの機能を果たさないほどに薄く、透明で、壁は左側が全て鏡張りだった。

鏡が綺麗に手入れされているのが、光の反射で眩しい。
目を細めたつもりが、眉間にしわを寄せ、暁闇に埋まるようになった。
立ち上がり、歩くと、下半身は以外に機能した。
ここが、どこだかが分からない。穏やかに運ばれる風が危機管理能力の欠如を促したのかもしれなかった。
逃げなければ、そう思うもその部屋の妙な心地よさに身をゆだねてしまう。縛り付けられてもいないのに。
何という愚かな、僕は自分がおかしくなったのかと眩暈がする思いだった。

ふいに足音を感じた。
軽いような、ためらなうような足音。
その足音に一瞬反応が遅れた。体が自分のものでない感触がもどかしかった。
石作りの扉の前でふいに止められて、あっさりと開いた。
無言で無愛想、扉がそう物語るように、出会い頭のその子も無愛想に瞳を細める。
その場に縫いとめられたように背筋が伸びた。
口は何とはなしに引き結ばれ、全身―頭からが図った様に茶色い。怜悧な茶目にまっすぐの茶髪。

真紅の林檎に目を奪われる前に、その子は呟いた。

「助けた理由は、分かる…」

口の中で小さく、けれど強く発した声をやたら五感が研ぎ澄まされたこの状況で聞き逃すはずはなかった。
逃げていたのだ、いや今もが正しいのか。
少しも表情を変えないこの子が余りにも抑揚がないので、何か悪いことをしていた、その現実が浮き彫りになって傷が疼いて、座りたくなった。

「…よく、覚えて、ないんだ」
「家の前で死んでるのかと思った、でも生きてた」

よかったね。

お世辞にもよかった、と思ってるだなんて到底信じられなかった。
右手に果物ナイフを持ち、左手に熟れた真紅の林檎。
感情の一つも読み取れない茶色の瞳。
途方にくれたくなった。

「…生きていくのに精一杯なのは、分かる」

瞳を細めて、彼女は笑った。
さらに彼女は続けた。

「盗んだんでしょ、逃げてたんでしょ」

からからと笑いながらおよそ抑揚がない。
気味が悪いようにも見えるが、温かくもなんとも怜悧。不思議だった。これが久しく忘れていた事かと思った。
そして、追われていたことを忘れていた。
今日の僕はどうかしていた。

「逃げるなら、海があるよ」

力のこもった声。
彼女の後ろにある窓辺が青かった。部屋全体が水槽のようだった。僕も彼女もおおよそ青とは似ても似つかないのにも関わらず妙に神秘的な口調に惹かれた。引き寄せられるように彼女の話を聞いてしまった。
何とかなるような気がしてしまっていた。
根拠もないのに、助かる気がした。

「海に呑まれないなら、助かるよ」
「どうやったら・・・?」

助かる。
その先を言おうとして、彼女が深く笑った。同情でもしてくれたのだろうか。
それにしても悲しそうな顔を知らないのだろうか。
無表情だと思っていた彼女が笑い始めてから、既に呑まれている自分が一番恐ろしかった。

「空を見ていいればいい、空はいつも優しいから。純粋だから。時々怒るけど」

透明なカーテンが風にそよがれて流れる。
役目を果たしていないそれは、空の神秘さを秘める点においては絶大だった。
それに酷く惹かれて、手を伸ばしたくなった。
頭の奥がじんじんと熱い。うなされて、頭の中を犯されている様だ。
いかれてしまうかもしれない。

「有難う。でも、よく分からない」

困ったように軽く笑った。
笑わないつもりだった。
助けてくれた理由も、彼女が不思議すぎてなぜか警戒できない理由も、何故遥か上から落ちて助かったのかも分からない。
分からないからこそ、そのままでいられるのかもしれない。
もう遠くに感じる確かに見た海も、もう一度どこか汚れてしまった自分も立ち向かえるのかもしれない。
無表情だけれど時折深く笑う彼女は、それ以上は踏み込ませないまま再び無表情になった。

「浜辺から、どこかへ行けるよ、どこへでも」

惹かれる様に白い腕が海を示す。いや、空を示していたのか。
その激しい瞳が僕を惑わした。

「君の、名前は?」

目を離せなくなった自分が浅ましいのか、それさえもどうでもよかった。
今度こそ僕は安穏ではなくなった。
確かに見えた海が、空と交わる線に決してたどり着けないような、感じ。

彼女は、存在そのものだ。
名前、それさえも超えたその空気が、ますます冷たく清らかで、甘い。
次第に蒼に近づいていった。
彼女は笑った。生きていた。


――あたしのなまえは…

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